激動

 この一週間は激動の一週間であった。
 朝寝ていず、昼少し寝、夜眠れず。
 激しく動いたというならば、微動だにしない睡眠という時間が無い分、この1週間は近年稀に見るほどの激動っぷりだった。しかし、外側からだけ見ると、激動といってもそんなに動いていないではないか、と思われる向きもあるかもしれないが、それは全くその通りであり、当人きってのこのわたくしでさえも、確かにその通り、万事正しいと膝を打つしか為す術がない。激動なんていうものは、人生に数度あればいいものであり、そうそう何ヶ月に一回あってもらっては、体験当該者たる自分としては迷惑千万極まりないものなのである。そうは言っても、多少の変動がなければ、自らの生き様を削って売る職業ゆえ、何の面白みもなくなってしまう。一週間まるまる部屋の中で過ごしました、ではなかなかに話の膨らみも無くなってしまうし、このようにブログを書く機会などに於いても困り果てることとなる。
 激動しなければ!と自らを鼓舞したところで、激動するのは脳味噌ばかりで、肝心の肉体の方はというと、頑固一徹、微動だにせず、といったところで、テコでも動かんのじゃきに!と、目いっぱいの主張をなさる。古来より肉体は精神に準ずるものとして認識されてきたが、ここにおいて、精神と肉体の上下関係が明確に目の当たりに直射日光のもとに果てどない紫外線のもとに満天の星空のもとにさらされることとなる。いくら激動を心が望んだところで、肉体の方は頑として動かないのである。動け!と念じても動かざること山の如し、どこ吹く風の如し。まがれ!とスプーンに向かって念じ続けた幼い日のことがほろ苦さを伴って脳裏に漂う。
 わたくしのごときひねくれものでも、幼年のみぎりはそういった諸々に興じたものである。超能力、催眠術、マジック、似非科学。わたくしはそういったものに興味駸々の幼少期を過ごしたものだ。親御さんは一体全体どのように考えていたのであろうか。いわく、生卵を酢に3日間漬けておくと殻が溶けてぶにぶにの卵ができる。いわく、スプーンの首の部分を何度も擦りつつ、曲がっている状態をイメージすることで、それが現実になる。いわく、ろうそくの炎は指で消せる。そうしたものを全て信じて受け入れた幼少のわたくしの純粋さたるや、ボルヴィックのごとし。しかし、すべて失敗に終わり、幾度となく裏切られ続けた結果がこの現在のわたくしの状態である。至極納得のいく話である。合点合点!
 そうした経験から言うならば、思考が現実になる、もしくは、肉体は精神に隷属している、なんていうのはまやかしでしかない。わたくし、幼な心に本当にスプーンが曲がると信じていたのだもの。ただ思っているだけでは、人生は激動しないのだ。それを実行に移さなければ、微動だにしないのである。
 けれども、「健全な魂は健全な肉体に宿れかし」という言葉にもあるように、肉体が健全であれば、精神も健全であるとは保証されない。詰まる所、肉体も精神も同様に磨き上げなければならず、どちらか一方でいい、という風なお気楽な話にはならないのである。両立の比喩としてよく用いられるところであるが、車の両輪のようなもので、どちらか一方だけでは、その場をぐるぐると廻り続けるばかりで、前進することができないのである。ああ、なんとめんどくさ、いや、素晴らしいことであるか!アレルヤ!という訳でわたくしも、激動あれかしと思うだけではなく、行動に移すため、微動だにしていく所存である。精神を震わせるだけに留まらず、肉体をも震わせていく所存である。微動だにさせていくのである!人はそれを貧乏揺すりと呼ぶのである。