銀河鉄道の夜と「どうしても」


宮澤賢治を読んで、飽きて、舞城王太郎を読んで、途中で放り投げて、ちょっとだけなんか書いて、飽きて、仕事をする。

授業のことを考える。
僕は根っこの部分が文系なので、英語や現代文を”教える”ということについてどうしてもぐるぐるしてしまう。
結局のところ、そうした読み取りの営みっていうのは、単純四角四面に伝えられることではないし、かといって感性だけに頼るというのもやはりおかしな話であると思う。からといって割り切ってテクニックに走ることもできない。
できる限り単純化した型、それを体感にまで落とし込むことができれば、いずれ自分のものにすることができるんじゃないかなぁ、という風に考えている。
根幹にある型を理解しなければ、それの応用そこからの逸脱について把握することは難しい。
破格を純粋に評価するためには、やはり基本をこそ骨身に染みて理解していないといけない。
また自分で文章を作る、となったときにもやはり基本形を知っていてこそ、そこからの脱格を目指すことができる。
ともかくも受験はおそらく多くの人にとって、初めて大量の文章に触れ、大量の知に漬かる経験だと思う。
だからこそ、その経験がいずれ自分が何かを受け取るとき、自分が何かを発信するときに、その礎となればいい。
そうした伝え方、いや伝え型といってもいいだろうか、そうしたものを適切に教えることが、伝えることができたならば、それに勝る喜びはない。

人生の営みというのは、還元すれば、すべからく人の思いを読み取り、自分の思いを発信することである。
そこに踏みとどまることができなければ、人の思いをくみ取れず、自分の思いを正確に伝えきれず、疎通を図ることができないままに、なんだか孤独に終わってしまうだろう。
たかが受験ではなくて、それは人生で。
自分の思いをつたなくとも必死で伝えるその術を。
人のささやかな思いをくみ取ろうとするその手のさしのべ方を。
そうした意志と、そうする努力を。

こういったことが、現代の環境から消え去ろうとしているように思われる。
あふれる情報から短絡的に人を判断すること。
自分と適合しない人間を簡単に切り捨ててしまうこと。

濃やかに敬意をもって人と接することが極めて困難な空気が充満している。
「どうしても」という言葉がこれほどまでに空虚に響く時代で、密度をもってして「どうしても」人と繋がろうとすることは難しいのではないだろうか。
そうして待っている先には「どうしても」生きたいとは思えない、孤独な状況が待っているのではないかと危惧してやまない。
飽食の時代で、過多の時代で、我々はハングリーさを失ってしまっている。
なんとなく楽しく、なんとなく生きていける。
だからこそ「どうしても」を失っていく時代なのではないか。
到達のない、目標のない、実存のない、「どうしても」を無くした時代。
すぐにあきらめ、手近なもので満足し、欺瞞に流され、真実を見据えない。
それが僕には「どうしても」怖い。
僕の「どうしても」は人間の可能性を信じることで、それを「どうしても」あきらめきれない。

努力をしよう。
人とつながろう。
共感をしよう。
連帯をしよう。
濃やかさをもとう。
密度高く人生をともに生きよう。

そんなきれいごと、お題目を唱え続けて、せめて目の前にある世界だけでもそうあって、最後ああ良かったやっぱり人間はすばらしいものだった、と思って死にたい。


とつらつらと仕事から逃避して考える。



ジョバンニはああと深く息しました。
「カムパネルラ、また僕たち二人きりになったねえ、どこまでもどこまでも一緒に行こう。僕はもうあのさそりのようにほんとうにみんなの幸のためならば僕のからだなんか百ぺん灼いてもかまわない。」
「うん。僕だってそうだ。」カムパネルラの眼にはきれいな涙がうかんでいました。
「けれどもほんとうのさいわいは一体何だろう。」ジョバンニが云いました。
「僕わからない。」カムパネルラがぼんやり云いました。
「僕たちしっかりやろうねえ。」ジョバンニが胸いっぱい新らしい力が湧くようにふうと息をしながら云いました。