友人たちの並ぶ棚。【ライティング・マラソン2】

 引っ越しや気分転換のために本棚の整理をし、本を捨ててはまた本を買うという作業を何度も繰り返している。その度その度買い直している本がたくさんあるのだけれど、一度手放した本ももう一度手元において置きたくなるのだ。そうして何度も何度も買い直し、また気に入った著者は単行本で買い、文庫になればまた買い、最近は電子書籍などという選択肢も出てきたので、同じ内容の本を何度買っているのかわからない。 今回は引っ越しに際して本棚を無くそう、と清水の舞台から飛び降りるような大それた決断をし、スキャナで読み取ったりしてだいぶん処理をした。ほとんどの本とお別れしてしまっていたのだ。スキャナで読み取ったものがあるからいいだろうと思っていた。今回こそは大丈夫、そう慢心していたのだ。だが数ヶ月経った今、結局いそいそと同じ本を買い直している。また、それが嫌な気分じゃないのが質が悪い。うむうむやはり大事だと思った本を買い直すのは、どこか自分が精錬されていくような、より純度が上がっているような、そんな思いがするのだ。

 本は人だ、という喩えがある。大哲学者ルネ・デカルトは「すべて良き書物を読むことは、過去の最もすぐれた人々と会話をかわすようなものである。」と述べ、『自助論』を著したサミュエル・スマイルズは「人の品格はその読む書物によって判断できる。それはあたかも、人の品格がその交わる友によって判断できるがごときものである。」と述べた。かように古来から、本は人間のように捉えられ、場合によっては人間よりも尊ぶべきものだと扱われた。ねずみが人間にチーズの作り方を教える『アナトール、工場へ行く』で小学生の心を捉えてやまないかのノーベル文学賞作家、アナトール・フランスはこう言う。「私が人生を知ったのは人と接したからではなく、本と接したからである。」  

 たしかに、友達よりもはるかに能弁で、友達よりもはるかに卓越した知性を備え、友達よりも謙虚で、友達よりも多様性に富み、友達よりもそっとずっとそこにいてくれる本は、僕にとっては友達以上の友達だった。元来、身体が強い方ではなく、社交性に長けてもいない僕は、ずっとずっと本を読んできた。小児喘息を患っていたので、病院に入り浸っていたのだが、夜中の病院の片隅で点滴を打たれているとき、入院中の病室のベッドの上ですることもなく一人でいるとき、はたまた家に帰っても臥せっている寝床の中、ずっと一緒にいてくれたのは本だった。駆けまわったりはできないから、せめて想像の中では、と様々な本を読み、想像を文字の間に羽ばたかせていた。それ以降も辛いとき、支えになってくれたのは本だった。  

 だから、本は僕にとってかけがえのない友人なのだ。  

 今回わかったことは、スキャンした本なんていうものは、所詮友達の写真のようなもので、質感を伴わない味気ないものだ。仲の良い友人は、やはり実際に顔を見て話せる方が断然良い。まだぎこちなく気張った様子でよそ行きの服を着た単行本も素敵だし、量販店で買ったどこにでもある家着を着ているみたいな文庫本も気安くて良い。3年も経てば気心知れて、素顔を見せてくれるようになるのだ。こちらの心の持ちよう次第で、いろんな話をしてくれる。「うれしそうだね、なんか良いことあった?」「そうゆうこともあるよ、落ち込むなよ。」自分の心を養ってくれたと思える大事な本を持つことは、気のおけない友人を持つのと同じだ。さて、今夜は誰と語り明かそうか。

 

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