茶の本【ライティング・マラソン6】

 お茶を飲むという行為が礼儀からほど遠く距離をもってしまったのはいつからだろうか。インスタントにお茶を飲めるようになってしまってからなのか、それとももともとお茶を淹れるという儀礼的行為自体が廃れてしまったのか。

 茶は、鎌倉時代初頭に臨済宗の開祖であり、建仁寺の開山を行った栄西(1141〜1215)により、日本に紹介されたものであり、その後、明恵上人が京都は栂尾高山寺で茶を栽培し、以降足利義満が茶の栽培を奨励した宇治へと取って代わられるまで、栂尾は茶の名産地として栄えた。当時の茶は現代のよく飲まれるような煎茶ではなく、粉末状にして飲むいわゆる抹茶であった。煎茶は江戸時代まで下り、1738年、永谷宗圓によって製法が完成されるのを待ち、明治時代になると、1835年、木下吉左衛門が茶摘みの20日以上前から覆いをした新芽を用いる玉露の製法を発見し、現代にも名を残す辻利右衛門がそれを完成させた。我々が日常的に愛飲するものになるには長い年月がかかっているのだ。

 その最初の段階から極めて禅宗との結びつきの中で修養色の強いものとして広まっていった茶の文化は、茶の湯として千利休のもと大成する。茶の伝統は、ただの飲食物のひとつとしてではなく、ひとつの道として、ひとつの文化として受け継がれていった。

 そしてそれを、国際的に知らしめたのが、岡倉天心(1863〜1913)だ。東京藝術大学の前身である東京美術学校の設立に携わるも排斥され、自身で上野谷中に日本美術院を設立、その後茨城五浦に拠点を移し、横山大観や菱田春草、下村観山などを育てた岡倉天心は、1906年『茶の本(THE BOOK OF TEA)』を著する。時代もあるが、西洋の影響何するものぞとばかりに、日本の伝統を多いに誇るこの本は、英語で書かれたものであり、まさに和魂洋才を地でいくものだ。

 端正な英語で簡潔に特殊日本的な伝統を語るのにも恐れ入るが、何よりもその日本文化に対する鋭い洞察こそが優れている。数寄屋を「空き家」だとし、「空」こそが日本文化の本質であると喝破する岡倉の語気に、じんとした痺れを感じる。「不完全」こそが心の動きを誘発し、有限の物質を無限へと解き放つことができ、無形の「虚」こそがわれわれの今この時を限りなく微分し永遠へと誘うものなのだ。茶道は衣食住そしてあらゆる日本文化へと影響を与えたものである、と天心は言う。形にならい型にはまる。その型の虚こそが、我々の精神を時の楔から解き放つものなのだ。西洋合理主義に染まった我々には、まさに「敷居が高い」ものとなってしまっているが、見失っている「不完全」さをしっかりと捉え直す眼差しこそを、取り戻すべきなのではないだろうか。そんなことを思いながら、お茶を淹れる。そうするとほんの少しだけ仕草が丁寧になり、心持ち背筋が伸びる思いがする。天心があのちょび髭でこちらを厳めしく睨んでいるような気がするのだ。そうして淹れたお茶はいつもより、ほんの少しだけおいしい、気がする。

 

(1251字・35:52)