あなたなら あなたなら 聴こえるって信じて

ゲスの極み乙女。のライブに行った。

 

星降る夜に花束を、が一曲目だったけどライブで聴くとさらにすごいよくてそっからずっと鳥肌たちっぱなしだったし、曲間のブリッジでひとつながりの作品みたいになってすごいよかったし、すごいすごかったのですごいよかったすごい。

絶対に生で聴きたかったユレルカレルもやってくれたし、パラレルスペックは生で聴いたら切実さがはんぱないし、ぶらっくパレードもスレッドダンスも聴けたしもう楽しい死にしたし、なんかわかんないけどアソビがすごいぐっときた。

 

そして、すごい熱狂の中、隻手の声、のことをずっと考えていた。

明滅する光を映すたくさんの人の手が、ここにいるよ、きいているよ、たのしいよ、ありがとう、っていろんなことを言っているように聴こえた。

 

”俺は実はすごくてさ 本当はもっと違うんだ” 『crying march』

”もっと大切な話がしたい もっと救われる言葉聞きたい もっと愛されるようになりたい と願った” 『サリーマリー』

”そう言えば大事な人に大事なこと言えなかった気がする” 『ぶらっくパレード』

”何百回も反芻した僕の最後の最後の後悔を 手紙に書いて渡せたらちょっとは楽になれるとかならないとか” 『ユレルカレル』

 

ゲスの極み乙女。の歌詞はコミュニケーションの断絶を捉えたものが多い、と思う。

自分の言っていることが伝わっているだろうか、誤解されてあたりまえなのはわかっているんだ、でもわかってほしい、簡単にわかられたくない、でも届く人には届くと思ってるんだ。そういう現代のディスコミュニケーションを象徴している。多種多様に分かれてしまったメディア階層と、大量に溢れた情報の取捨選択によって、ひとの背負って立つものはバラバラになってしまった。みんな違ってみんないい。だけれども、それはみんな違うだけで。みんな違って、みんなひとりだ。そうした断絶を補うものこそ、片手を伸ばし、片手の声を聞こうとする態度なんじゃないかな。助けて、と、ここにいるんだ、と、せいいっぱい伸ばしたその手を探して、つかもうとすることなんじゃないか。縮こまって震えている。それでも片手をのばそうとする意志が、わたしに必要なものなんじゃないか。誰にもわかってもらえないと嘆きながら、誰にもわかってもらおうとしないで、誰かがわかってくれようとしてもその誰かを選別しては、批評家ぶって悦にいる。そんな自分がきらいだ。

 

”曖昧な言葉の境界線を超えて明日に生きるんだ” 『crying march』

 

言葉では表せない、その向こうへ、片手を伸ばしていかなくては。

だからこそ、パラリラというしかない『アソビ』がすごくぐっと胸にきたし、パラリラで場が一体になっていることが、すごく心に響いた。

『ユレルカレル』でみせる真面目な心情をパッパラーと茶化してしまう視点が、真面目になりたいでもなりきれない自嘲を示していて、わたしは大好きなのだけれど、そうして本音を誤魔化してお道化て、本質を覆い隠して、でもそれでも

 

”あなたならあなたなら聴こえるって信じて” 『パラレルスペック』

 

真面目にはなりきれないし、声高に理想を叫ぶほど傲慢にもなれない。お道化てお道化てお道化ながら、そっとその中に忍ばせるしかない。

そうしてわたしは片手を伸ばして、せいいっぱい腕を伸ばして、不格好にもがいて生きたい。仕方ないなって言って笑って、辛かったねって言って半泣き顔で、この手をつかんでもらえますように。そんな夢を、見ていた。